大正10年 東京渋谷羽根沢生まれ。
昭和14年 東京府立第二中学校卒業
昭和18年 陸軍予科士官学校卒業
昭和18年 陸軍航空士官学校入学
昭和20年 終戦により解散。
昭和21年 東京大学史学科入学
昭和24年 東京大学東洋史学科卒業
昭和24年 東京都三鷹市立第一中学校教諭
昭和26年 東京大学東洋史学科大学院修了
昭和34年 防衛大学校助手
昭和38年 防衛大学校講師
昭和40年 防衛大学校助教授
昭和48年 防衛大学校教授
昭和50年 逝去
『清初軍事史論考』(甲陽書房),『露清対立の源流』(甲陽書房)ほか。
明治42年、東京生まれ。
昭和33年、「子種」により『婦人公論』第1回女流新人賞受賞。昭和39年、定本『子種』を甲陽書房より刊行。昭和51年『土とふるさとの文学全集』(第1巻・家の光協会発行)に「子種」収録。
『おらが蕎麦』(甲陽書房),『子種』(甲陽書房)ほか。
大正7年11月、山梨県生まれ。
戦前、東京の創元社に勤務。
戦中、海軍報道班員、陸軍報道班員。
戦後、高須書房編集長、第一書店出版部長、諏訪書房企画部長などを経て、同人雑誌『中部文学』の代表者となり、昭和23年図書出版甲陽書房を創立。
日本文藝家協会会員、日本ペンクラブ会員。『黎明以前』により第4回(昭和59年度)日本文芸大賞歴史文学賞受賞。
小説『天目山』(甲陽書房),『黎明以前 -山懸大弍-』(緑地社)ほか。
昭和16年、東京生まれ。昭和38年、東大仏文科卒。
朝日新聞記者。社会部、整理部を経て、企画報道室。社会部では、事件、教育、環境問題を受け持ち、整理部では、政治、経済、国際問題を扱う。企画報道室では、テーマ談話室の『お金』『こども』『食べる』の編集、刊行に携わった後、言葉、文化、世相・風俗などを幅広く取り上げる。
『東京探見 -江戸・東京の歴史と文化をたどる-』(甲陽書房)ほか。
明治33年3月、山梨県生まれ。
昭和13年4月、処女作「山村の人々」を『新潮』(新人特輯号)に発表。以後、長篇小説『太陽樹』(文昭社)、『現代の河』(錦城出版社)、『青春の笛』(増進堂)、中篇小説『夢魔の街』(中部文学社)、短篇集『断崖の村』(高須書房)、『ひかりの枝』(甲陽書房)、『影と影』(甲陽書房)等の著書の他、『新潮』『中部文学』『農民文学』『文化人』等の各誌に多くの長短篇小説を執筆。
長篇小説『太陽樹』(文昭社),『現代の河』(錦城出版社)、『青春の笛』(増進堂)、中篇小説『夢魔の街』(中部文学社)、短篇集『断崖の村』(高須書房),『ひかりの枝』(甲陽書房),『影と影』(甲陽書房)ほか。
明治34年天龍峡姑射橋ちかくの家に生まれ、父祖からの農蚕の業を承けて生涯それに従う。
著書と編集に「川路の話」「天龍峡」「歌集山峡」など、共編に「歌集伊那」と「歌集伊那覊旅篇」がある。日本歌人クラブ会員。
『天龍峡 -百十年の記録-』(甲陽書房)ほか。
大正5年4月 高知県吾川郡春野町生まれ。
昭和11年3月 高知高等学校文科乙類卒業
昭和14年3月 東京帝国大学文学部西洋史学科卒業
昭和14年4月 陸軍参謀本部謀略史研究嘱託
昭和15年2月 召集、従軍(陸軍二等兵~陸軍少尉)(満洲、南支、南方-陸軍聴部隊-)
昭和18年4月 除隊
昭和18年6月 文部省教学局指導課大学高専係(11月迄嘱託兼任)
昭和18年7月 海軍経理学校歴史教官(海軍教授)
昭和20年12月 高知県世話課嘱託、高知大学期成同盟会、専門委員長、高知県教育会主事、高知女子専門学園校長、国会議員秘書
昭和23年9月 高知県公聴公報委員会事務局長
昭和24年12月 高知県渉外弘報課長
昭和27年5月 高知大学文理学部事務長兼嘱託講師
昭和27年11月 文部省より防衛庁に出向、防衛大学校創設業務に従事
昭和28年4月 防大発足と同時に助教授兼総務課長 その後、図書館課長、図書館事務長を兼歴任
昭和38年9月 米国スタンフォード大学教育学大学院に留学
昭和39年6月 帰朝帰任
昭和43年5月 (ギランバレー症候群)発病入院
昭和43年8月 退院、一時自宅療養、次いで勤務に復し、闘病に努めつつ、授業、学生の個人指導、研究活動を継続
昭和48年5月 防衛大学校教授
同年5月11日 十二指腸潰瘍手術後急性腎不全にて死去(享年57歳)
『ナポレオン戦略≪国防双書第2編≫』[共著](甲陽書房),『殱滅戦≪国防双書第3編≫』[共著](甲陽書房),『任重く道遠し -防衛大学校における講話-≪国防新書1≫』(甲陽書房),『乃木大将 -戦争を背景として立つ偉大なる人物-≪国防新書4≫』(甲陽書房),『世界最近世史』(甲陽書房)ほか。
昭和12年、名古屋市生まれ。
防衛大学校4期生として卒業。防大教官、陸上自衛隊の各級指揮官・幕僚を歴任。この間、西欧諸国、米国及び韓国の軍事情勢を研修。
昭和60年8月、北海道岩見沢駐屯地司令。
昭和62年3月、山口地方連絡部長。
平成元年4月、陸上自衛隊中部方面総監部総務部長。
『小原台』(甲陽書房)ほか。
昭和9年、長野県諏訪郡富士見町生まれ。
平成3年、新短歌『信濃』(現在の『未来山脈』 主宰・光本恵子)の講座を聴き入会、以後、同会会員。
『きんぴらごぼうの歌』(甲陽書房)ほか。
明治33年、山梨県甲西町生まれ。
昭和3年、東北大学法文学部卒業後、逓信省に入り、熊本逓信局長、郵政省簡易保険局長を歴任。同26年山梨県副知事。同33年以来衆議院議員に当選(4回)、逓信委員、文教委員、建設委員、災害対策委員、運輸委員、国会対策副委員長を歴任。同43年、ソ連・北欧・東欧および中近東諸国を、また、同44年と46年、2回にわたり、南米を歴訪。
『山と谷のある道』,『欧米ひとり旅』,『欧州ひとり旅』,『南米の旅から -遠くて近いラテン・アメリカ-』(甲陽書房)ほか。
昭和8年4月生まれ。
早稲田大学文学部卒。日本文藝家協会会員。日本ペンクラブ会員。全国同人雑誌作家協会常務理事。
『乱れ風吹く残党』(甲陽書房),『上顎下顎観血手術』(甲陽書房),『扉のない部屋』(甲陽書房),『鏡の中』(甲陽書房),『檻の中』( ファラオ企画),『失踪』(甲陽書房),『兎の復讐』(甲陽書房)ほか。
大正12年 長野県松本市島内区生まれ。
昭和13年 島内尋常高等小学校を卒業。
昭和14年 名古屋市千種区陸軍工廠に勤務。
昭和16年 横須賀海兵団に入団。
昭和17年 第10期普通科海軍操縦練習生卒業。
昭和17年 第25期高等科海軍操縦練習生卒業。
昭和20年 終戦により復員。
昭和21年 看板塗装業、鈑金業などに従事。
昭和29年 オートバイ修理販売業に従事。
昭和36年 小高誠輪社を創立、同社社長。
『わが翼いまだ燃えず -撃墜戦記-』(甲陽書房)ほか。
昭和7年2月、長野県生まれ。
信州大学医学部卒業。外科医。日本文藝家協会会員、日本ペンクラブ会員。『中部文学』同人。全国同人雑誌作家協会会員。大衆文学研究会会員。『六兵衛の盃』で第17回日本文芸大賞エッセイ賞を受賞。
『柿の木のない村の話』(新信州社),『武井家三百年史』(甲陽書房),『冬の六部』(甲陽書房),『六兵衛の盃』(甲陽書房),『グラマンの飛んだ日』(甲陽書房),『ヒマラヤ杉 -ある青春の彷徨-』(甲陽書房),『脱ダム讃歌 -下諏訪ダム反対運動の軌跡-』(川辺書林),『驟雨は夏の匂い』(叢文社)ほか。
明治21年、茅野市宮川西茅野平沢重左衛門の次男として生まれる。小学校卒業後、農業に従事、傍ら独学をもって漢籍を修め、古今の史学を研究した。漢詩は北沢湖民に就いて学び、当時の吟客横川三松、三輪芳村、小松雪軒、宮下宗碩等と共に、作品を新聞紙上に発表。また東都の詩人三島中洲、股野藍田、久保天随等と交遊した。36歳の時、推されて宮川村長となり、自治行政にも幾多の功績を挙げ、のち保険業界に入りて貯蓄増進にも貢献した。老来、漢詩は土屋竹雨の主宰する「東華」に発表。さらに詩吟と地方史の研究を続けた。
『諏訪雅人伝』,『続・諏訪雅人伝』,『漢詩生涯七十年』(甲陽書房),『茅野市の観光』(甲陽書房),『茅野市靖国忠魂録』(甲陽書房),『信濃五百八景』(甲陽書房)ほか。
昭和6年生まれ。
中央大学法学部卒。
『ソ連を歩いて』(時事出版社),『心のふるさと』(京大出版部),詩集『骨と北風の歌』(甲陽書房)ほか。
明治36年、長野県茅野市生まれ。
18歳の頃、新聞歌壇にてアララギ派歌人・土田耕平に短歌を学び、後、『アララギ』に入会、農事の傍ら短歌を中心に文学に親しむ。昭和8年、杉浦翠子主宰の『短歌至上主義』創刊に従い、由季雄の筆名にて同誌廃刊までの10年間を翠子に師事。終戦後、『短歌新潮』等の会員となって短歌を続けたが、昭和30年、一水会員・篠原昭登画伯の勧めにより、油絵を習う。
『試練の足跡 -大正末期の兵営生活-』(甲陽書房)ほか。
石川県小松市八幡在、九谷焼窯元山崎幡山堂亡山崎三郎平の五女として、大正9年出生。
昭和41年処女作『九谷の肌』、同42年第2部『女の炎』を甲陽書房から刊行した。昭和43年夏、『女の炎』が、早川恒夫演出、森光子・堀雄二主演「恋しかるらん」の題名で日本テレビによってドラマ化され、全国に放映された。
『九谷の肌』(甲陽書房),『女の炎 -九谷の肌 第2部-』(甲陽書房),『九谷女絵図 -九谷の肌 第3部-』(甲陽書房)ほか。
明治40年 長野県諏訪郡上諏訪町生まれ。
大正13年 県立諏訪中学校(現・清陵高等学校)卒業。
大正13年 4月永明小学校代用教員となる。
昭和8年 2月6日検挙(教員赤化事件)。
昭和9年 12月15日下獄。
昭和11年 4月29日釈放。
昭和12年 3月上京。思想犯保護団体帝国更新会に入り、後そこの事務員となる。
昭和17年 このころから東京の目黒、蒲田当の町工場の徒弟教育の仕事に従事し、戦時中それらの工場の舎監、青年学校の事務に従事した。
昭和19年 5月長野県諏訪市豊田に疎開し、疎開工場に勤務、敗戦を迎えた。
昭和21年 1月から昭和36年4月まで、政治運動、民主化運動に従う。
昭和41年 3月以来、郷里にて著作ならびに画業に専念。
昭和42年 戦前の弾圧記録『夜明け前の闇』を理論社から刊行。
昭和45年 『夜明けの嵐』を甲陽書房から刊行。
『夜明けの嵐 -一共産党員の痛憤の手記-』(甲陽書房),『夜明けの霧 -抵抗か?屈辱か?-』(甲陽書房),『岩波其残』(甲陽書房),『郭公よ声高く啼け -藤森成吉先生の文学碑建設によせて-』(甲陽書房),『"辰野事件"の真相』(甲陽書房)ほか。